コミュニケーションについての雑感⑦ 葬送のフリーレンより 「大事なのは姿勢」
100%分かって欲しい・・・というのが現実的ではないわけですが、ならばどうすればいいのか???

そのヒントが現在放送中のアニメ「葬送のフリーレン」第3話にありました。
弟子の少女フェルンの誕生日。
フリーレンは人間とは違う種族エルフ。
人間の心が理解できない彼女は、どんなプレゼントが気に入ってもらえるのか分からず、さんざん迷った末に髪飾りを買ってプレゼントします。

渡す際にフリーレンは謝るんですよね。どんなものが好きか把握していなかったことに対して。
そのあとのやりとり

フェルン 「綺麗な髪飾り…ありがとうございます。とても嬉しいです」
フリーレン『本当に?』
フェルン 「フリーレン様はどうしようもないほどに鈍い方のようなのではっきりと伝えます
      あなたが私を知ろうとしてくれたことが、堪らなく嬉しいのです」
フリーレン『知ろうとしただけなのに?』
フェルン 「フリーレン様は本当に人の感情が分かっていませんね」


「知ろうとしてくれた」姿勢そのものが嬉しいと。
それを「共感への姿勢」と言い換えました。
つまり「感じようとしてくれている姿勢」・・・・上原輝男先生の言葉をつかえば「共感しようとする構え」となりましょうか。

「感じる」ですから、きちんと言語化できなくてもいいんです。
むしろ、言葉にできない心の奥底、無意識の中まで感じとるには、言葉は邪魔になることさえあるわけです。


辛い思いをしている相手に対して、言葉でベラベラと励ますよりも、静かにじっと寄り添ってあげた方がずっといいというのも、そういうことです。


「言葉での表現」にはそうした限界があることを古来より日本人は自覚していたということなんですよね。


*もっともそれは単一民族が、閉ざされた狭い地域が生活空間だったという島国特有の特徴でもあったのでしょう。
他国と陸続きであるヨーロッパ系の国々では、以心伝心のようなことよりも、はっきりと記号的な言葉で伝えないと共感への糸口がつかまなかったのかもしれません。

フェルンが「はっきりと伝えます」と宣言しているのは、そういう意味で相手によって言葉を使い分けるということ。
「鈍いようですから」というのは決してフリーレンをバカにしているのではなくて、あまりに人間とエルフという種族の間で常識に隔たりがある、それはそう簡単には埋められない、ということで「鈍い」といっているだけだと思います。

情報端末での文字やりとりに慣れた人が増え続けている現代日本の社会での大切なヒントになると思います。

従来のような「言葉にならない言葉」で感じ合おうとできる姿勢
「はっきりとした言葉」を手掛かりにして、言葉になっていない心の奥底を感じとろうという姿勢

そんな使い分けが必要な時代なのですね。